二見興玉神社

御祭神
興玉大神 御名 猿田彦大神
相殿 宇迦乃御魂大神

御由緒
二見浦の名称は皇大神御神幸の途次二見浦に着船せられたとき、倭姫命の御尋ねに大若子命より『速雨二見の国』と御答へしたに初まり、天下の絶勝宇内の霊域として、その名は夙に四方に喧伝せられ、立石(夫婦岩)の前に額づくもの目に相踵ぎ、殊に春秋の佳期には殷盛を極めるものであります。

冒頭に述べるように第十一代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が皇大神である天照皇大御神を奉戴され、この二見浦に御舟を停められた時、興玉大神が海上の厳島(興玉神石)に出まされ、御神幸を守護し奉り、五十鈴の川上に大宮地を定められました。
そして、未来永劫、皇大神宮大宮地の守護神として鎮まられ、内宮御垣内に興玉神が奉斎されるに至るのです。

尊い御神徳を現わされた興玉神は、皇大神宮大宮地の守護神として尊崇され、厳島は興玉神石と尊称し、立石崎の立石(夫婦岩)に注連縄を張り結界とし、その前に遥拝所を設けて礼拝したのが当社の創始となります。
その後、僧行基が此の地に来りて、興玉神の本地垂迹なりと称して観世音菩薩を本尊となして江寺を創建し興玉社を鎮守の神として同寺の境内に社殿を設け、仏者の手において祭祀が執り行われました。

しかし、明治9年に神仏分離により立石(夫婦岩)前に御造営御鎮座されました。
当時、境内には天の岩屋の内に祭祀せられた三宮神社(三狐神社)が鎮座されており、興玉社と三宮神社が合祀され、明治43年に二見興玉神社と改められました。